価値観の認知と共感。~赤いものが赤といえること~
2007年11月13日
ぺんきやさんが赤といったから、「この色は赤だ」ということはありえません。
イラストレーターさんが、赤といったから「赤である」とは限りません。
ひとつの色を見た時、例えばこれは赤だという事実ことがあったとした時、
私の感じている赤と、これを読んでいる方の赤の認識は違うはずです。
それは物の価値が違うからです。人によって価値観が違うはずです。
その価値を赤という色やものによって、共感しようと言う心の歩み寄りというか、同じ想いであることを示すことが「共感する」と言うことだと思います。
大切に思えるものがお互い近いといいですよね。
言葉遊びや、言い回しで遊ぶと言うことがよくあります。
今でこそ、(笑)や、wといった、「これは冗談ですけどね、ははっ!」というニュアンスをメールやこういった文章で使うことがあります。あまり硬くならないように言い回しを伸ばしたりもしますねー。
文章だけだと冗談が伝わらない、冷たく見えるといった意見も、ネット社会になってきた今、だいぶお互いがその距離を理解してきました。
しかし、最近では言葉を言葉として受け止めてしまうがあまり、本当かとか事実だとか言うものが伝わりにくくなってしまったように思います。
いろんな価値があっていいはずなのに、それを容認できないとか、
誰かがそういったから、他の人がそれしか受け入れられなくなったとか。
自由であっていいはずなのに、自由を怖がる。
発想がないから提案すると、好むか嫌うかだけで、自分の意見がない。
いろんな価値があっていいはずですよね、世の中もネット社会も。
「そういう考えもあるんだー」という一呼吸をおいてから、「でも自分はこう思ったよ」という意見を出すと言うのが、自分を持つと言うことであって、その判断なく良いとか悪いとか、好きだ嫌いだとか言うのはうーんと思います。
私は、仲のよい友人に対してよく「遊び行こうぜ?行く?でなければ帰れっ」(言葉が悪くてすみません)
と暴言を吐くことがあります。
でもこれは、仲がよい人に対して、お互い仲がいいから許されることであって、一般人やお客様に対してやろうものなら大変由々しき事態です。
ネットは、こういう薄っぺらさをカバーできるほど万能じゃないんですよね。
だから、その薄っぺらさを共感しなきゃいけないと思うんですよ。
文句だって言いたくなったら、いかに相手に効率よく伝わって、かつ周りを気分悪くさせないか、といった気配りって必要だなと思います。
ましてや共感する、共感できるものをこしらえたりする人や、我々ご提案をする営業と呼ばれる職業の人は、こうしたほうがよいかな?という心で動いているものに、受け手側は、共感できないから批判する、という脊髄反射的な動きを見せる方が多いのは非常に心が痛いです。
価値観が同じ人はありえません。
価値観が似ているとか、価値観が近いとかそう感じることを、「共感すること」が大切であって、それを踏まえたうえで、自分の考えを述べ理解してもらう、そういった手順が必要なんです。本当は。
「作った色が気に入らないならぜひ声をかけてください。
その代わりイメージとか好きな色とかいろんな話をしてください。」
私は、調色して色を選んでもらう時、そういいます。
せめて色を選ぶ楽しさや、物を一緒に作る楽しさをお客様やみんなと共感したいと思います。